「魔 剣」 (3)



「手、手が離れない!」

妖刀を捨てようと開こうとした手が動かない。ブンブンと振ってみるが、博雅の手はまるで別人の手のように全く言うことを聞かなくなっていた。
「まさか…」
その様子を呆然と見つめる為義。
「…選ばれたんだ」
「選ばれた?何を言っているんだ、為義どの?」

「私を選んだはずではなかったのか」
「た、為義どの?」
急にうつろな表情になった為義に博雅は戸惑った。
が、その答えを聞く前に博雅の方に異変が起き始める。

「うっ、なんだ?」

握った刀の柄を通して何かが体の中に流れ込む。指の先から、手のひらから、何かがじわじわと染み込んで腕を這い上がってくる、えもいわれぬおぞましい感覚、全身に鳥肌が立つ。

どくん。

腕を這い登った何かが胸にまで達したとき、博雅の心臓が鼓動をひとつ強く打った。

「う、うわ…」

まるで毒蛇の猛毒が身体に廻るように博雅の体内を邪悪な何かが駆け巡る。

「な、なんだ、これはッ…?」

カタカタと小刻みに震え始める博雅、その額にじわり、脂汗が浮く。

どくん。

耳を打つかと思うほどに響く自身の鼓動。回る、毒蛇…妖しの太刀…の毒。

「うう…」
視界が赤く霞む。
頭がボウッとする。
やがて、博雅の関知しないところで、ゆっくりと妖刀を持った腕が上がってゆく。

「太刀よ、私のはずではなかったのか」
為義の声が遠くに聞こえた。
「た、為義どの…」
ぼうっとする頭を必死に振って声のするほうを見る博雅。
が、霞むその目に映った為義の姿が…。

獲物に見えた。

「き、斬りたい…」

博雅の口からとんでもない、ありえない一言が出た。

妖しの太刀を左肩低く斜めに構えて、博雅は低く腰を落とした。足がジリ…と地面を滑り、為義の方を向いた。一撃必殺の構えである。これでなぎ払われれば、為義の華奢な体などそれこそ綺麗に真っ二つになる。

博雅の体から沸き立つ、本物の殺気。

うつろな目をしていた為義でも、さすがにそれには気づいた。
「ひ、博雅どの?わ、私を斬るつもりか!?」
その甲高い声にハッ、と一瞬我に返る博雅。自分の格好に気づく。

「わ、私はいったい…」

博雅の体から殺気が消える。
「太刀よ、私とお前は一心同体、これ以上ないほどの一組だったではないか。私を裏切り、殺すのかっ!!」
博雅ではなく妖刀に向かって、為義はヒステリックな声を上げた。が、妖しの刀は答えない。
ただ、黙って…博雅の体を再び支配し始めた。

ギギギ…

「くううッツ!」

持ち上がろうとする腕を必死に押さえる博雅。殺せ…殺せ…斬れ!斬れ!と心の中で誰かが煽る。

きっと、こいつだ。

手から離れようとしない妖刀を睨みつけて、博雅は混濁しそうになる理性を必死の思いでかき集めた。

「あ、あなたも、こうやってこいつに支配されていたのか、為義どのっ!」

ギリ!と歯を食いしばって博雅は言った。

「ならば、今度はあなたが危ない!私から逃げてください!そ、そして、この先の安倍晴明の屋敷に行って、こ、このことを告げてください!た、頼みます!!」

その間もギリギリと博雅の腕は上がってゆく。それを呆然と見上げる為義。

「は、早くっ!!」

ビュウ!と風を切って、為義のすぐ顔の横を博雅の豪速の太刀が、通り過ぎる。

ザン!

為義の体ではなく、傍らの竹がすっぱりと斬れて倒れた。博雅が妖刀に操られた切っ先を、寸前で僅かに変えたのだ。
が、そんなことは露知らぬ為義、肌で感じた剣の恐ろしさに肝が飛び出すほどに恐怖した。斬る楽しみは知っていても、斬られる恐ろしさは知らなかったのだ。

「ひっ!」
まるで棒のように全身を硬直させたと思ったら、次の瞬間、

「ひいいいい!お助けくだされっ!!」

体を翻すや、脱兎のごとく逃げ出した。

「た、為義どのっ!!必ず、必ず、晴明の元へっ!!」

必死で逃げ出す為義の背中に、悲愴な博雅の声が追いかけた。






「ふむ…変だな」

そう言ってあごに指を当てたのは、都一と名高き陰陽師、安倍晴明である。自身の屋敷の濡れ縁で、柱の一本に預けていた背をゆっくりと起こした。
立てた片ひざにひじを乗せてその手の上にあごを乗せ、切れ長の目を眇めて庭を見渡す。

チチチ…。

サワサワサワ…

小雀の可愛い鳴き声とそよ風に揺れる木立の音。
いたって平和な初夏の午後。

の、はずなのだが、美貌の陰陽師の顔は冴えない。
またひとつ、眉間に縦皺が刻まれた。

「おかしい…」

そう言って晴明は目の前の床に目を落とした。

日の光を明るく跳ね返してそこに置かれた円座。
そして、陽光の透ける白磁の杯。

日の光の中にすべてが揃っているのに、一番大切なものが抜けている。

「博雅…どうしたというのだ?」


高野の山から戻ってきた晴明。が、帰るやすぐに、帝から呼び出された。いつもならなんのかのと理由をつけて顔を出さないところだが、さすがにしばらく留守をしてきた手前、呼び出しに応じないというのも憚られたのでしぶしぶ参内。
ついでに、愛しい恋人の直衣姿を見ることができればこれ幸い、というのが本当に理由のようでもあったが。

ところが、意に反して雲上人がさんざめく都の中枢部に恋人の姿を見つけることは敵わなかった。神経を廻らせて気を探ってみたが広い宮中に恋人、博雅の気配はなかった。
さては、天気にでも釣られて遠乗りにでも行ったか、珍しいこともあるものだな。などとさして気にも留めなかった。

そしてその翌日。

自分が都に戻ったことは、もういくらなんでも耳に届いていよう、そして届けば必ず来る、と思って早い刻限から土産の旨い酒や酒肴など揃えて待っていたのだが、恋人である殿上人は一向に現れる気配がない。

もしかして俺のいないのに拗ねたか、それとも色に目覚めたその勢いで他にいい情人でもできたか…、まさか、そんな馬鹿なことあるわけない、と思いつつ、なぜか心配が募ってくる。

心配?いや、不安か?
なんだ、この漠然とした嫌な予感は?

日の光の透ける白磁の杯をじっと見つめる晴明。

薄い杯に白く濁った酒を静かに注いだ。

揺れる水面、その面に中指の先をわずかに浸し、小さく呪を唱えた。

白濁した酒の面にじわりと浮かぶ紅い色、血の色である。
やがて、それがゆっくりと渦を巻き始める。


何も見えない酒の面、舌打ちする晴明、さらに強い呪を唱えると一人の男のおびえた顔が映った。

どこかの室内にいるらしいその男は、もう夏も近いというのに火鉢を両腕に抱え込むようにして背中を丸めて座っていた。
白いというよりは青い、いや、青黒い死人のような顔色をした男、傾いた烏帽子にほつれた乱れた鬢、目の下には黒い隈がくっきりと浮かんでいるその顔に晴明は覚えがあった。

「橘為義?」

時折ビクッとして跳ね上がり、そのたびにきょときょととあたりにせわしなく首を巡らす男の姿に晴明の眉間に小さな皺が刻まれた。

「博雅の姿を探していたのに、何故この男が?」

まさかこれが博雅の情人のわけもない。
ふう、と溜息がひとつ。

「やっかいなことになりそうだな…」

杯に映った為義の影ごと、中身の酒を庭にザッ、と捨てると、晴明は難しい顔をして立ち上がった。



「おう、これはこれは。珍しい奴に珍しいところで会ったものだな」

名を呼ばれて振り向いたのは、晴明と1,2を争うこの都、最強の陰陽師、加茂保憲である。

「久しうございます。保憲さま」

白い歯を見せてニッ、と笑う兄弟子に、晴明は深々と頭を下げた。
保憲と晴明がいるのは内裏の内、陰陽寮である。ここは本来ならば、晴明がその勤めを果たさねばならぬ、いわば職場である。が、勿論この傍若無人な晴明にそのような枠は当てはまらない。ここに顔を出すのは節目の節句のときか、帝に召集された時ぐらいなものであった。
「来たなら、仕事をしてゆけよ、おぬしでなければ出来ない仕事が山積みだ」
どうせ、するわけもないのだが言ってみる保憲。
「あいすみませぬ。他にもっと大事な仕事がございまして」
晴明はもうひとつ頭を下げた。
「ふん、わかってるさ、それぐらい。帝に呼ばれもせぬのにお前がここにいるなんてありえないからな。おまえ、先日まで高尾の山に行っていたそうではないか、なにかそれに関する調べ物か?」
手にした書付に目を落としながら保憲は聞いた。

「調べ物には違いありませぬが…」
「うん?」
晴明の口調に何かを感じたのか保憲が顔を上げる。

「橘為義どののことをご存知ですか?」

「橘為義?…ああ、あのちょっとイカレた小僧か」
「その為義どののことです。で、イカレているというのはどういう意味です?」
「なんでも前から少し変わったヤツだったが、ここしばらく屋敷から出てこなくなったと聞いたが…そんなことを調べてどうするのだ?」
「少し気になるところがありましてね…その男、どこが変わっているのです?」
「うむ、敢えて言うなら怖いもの知らずだな。」
「勇敢?」
「いや、違う、言葉のとおりだ。この世に自分の力の及ばないものなどないと思っている。まあ、内裏の中ではそうもいかぬと知っているだろうが、それ以外の場所では貴族は特別だと思ってるんだな。まあ、貴族にはいくらかそういったところが少なからずあるが、こいつの場合は行き過ぎの感があるな」
貴族以外は犬畜生並みだと思ってるのさ、そう言って保憲は晴明を見た。
「なるほど…馬鹿だってことですね」
晴明は苦く笑った。

身分など気にもしない恋人の顔が頭を掠める。

「はっきり言うとな。」
だが、と保憲は続けた。
「その馬鹿が屋敷に何故篭ったか」
「何か内裏でやらかしましたか?」
「いや、外だ。この為義という男、馬鹿の上に血なまぐさい話が何よりも好きときててな。…例の辻斬りを見物に出かけたらしい」
「本物の馬鹿ですね」
「まったくだ。その日以来何があったか知らんが、屋敷から出てこなくなった、というわけさ」

「それがどうかしたか?」
保憲は不審げに晴明の顔を見た。
「この男とお前に接点があるとも思えぬが」
「博雅さまを見かけませんでしたか?」
保憲の問いには答えずに晴明は尋ねた。
「博雅さま?…いや、今日は見かけていないが…、いや、待てよ…」
そういえばここ二、三日あの暢気な顔を見てないな、と思い当たる。
「博雅さまに何か…」
あったか、と聞こうとしたそのとき。
 
「晴明どの!」
険しい声が二人の会話に割り込んできた。
「おや、これは俊宏どの」
呼ばれた晴明の代わりに保憲が答えた。
「大きな声を出されてどうされました?」
「どうされた、ではございませぬ。晴明どの、うちの殿をいい加減お返しくださいませ」
眉間に険しい縦皺を寄せて博雅の従者の俊宏が言った。
「もう三日目ですよ、三日!いくら暢気な殿とはいえ、いくらなんでも長すぎます。殿のご指示をいただかなくてはならないこともありますし、なにより、屋敷の者が心配いたします。積もる話があるのはわかりますが、もうお帰りくださるよう言ってください」
立て板に水のごとくまくし立てる俊宏。丁寧な言葉遣いに気をつけてはいるようだが、言葉の端々に棘が立つ。
「…これはご心配をお掛けいたしまして申し訳ございませぬ。どうやら、わが屋敷の使いの者が俊宏さまと入れ違いになったようでございますね。」
「入れ違い?」
「ええ、博雅さまにおかれましては、昨夜より少しお風邪を召されたようで、わが屋敷にて少しの間、ご療養をしていただこうかと。使いのものを知らせにやったのですが…」
「なな、なんですって、殿がお風邪?それならばなおの事、屋敷にお戻りいただかねば!」
俊宏が気色ばむ。
「ああ、それはなりませぬ。ただの風邪ではございませぬ。…どうやら、どこぞで誰かが博雅さまに…」
晴明が蝙蝠で口元を隠してそっと言う。
「ま、まさか…呪詛…?」
「まさか、とは思いますが。」
晴明の言葉に俊宏の顔がみるみる青ざめる。
「ですから、暫くのあいだ、わが屋敷に結界を張って博雅さまをお守りいたさねば、と」
「むむむ…」

険しい顔で低くうなると、「いたしかたございませぬ、くれぐれも、くれぐれも、殿をお頼み申します」と深々と頭を下げて、俊宏は未練がましく何度も振り返りながらその場を離れていった。

そんな一部始終を黙って見ていた保憲。
俊宏が去ってから一言。

「博雅さまがいなくなったのか」

ずばり、核心を突いた。



「…私の杞憂ならばいいのですが」
歩み去る俊宏の後姿を見つめながら晴明は話し始めた。
『一昨日都に戻りましてより一度も博雅さまのお姿を見ておりませぬ。最初はきっと他に予定がおありなのだろうと思っていたのですが」
「何も必ずおまえの元へおいでとは限らないと思うが?」
「…いらっしゃらないわけがないのです」
保憲の言葉に晴明はきっぱりと答える。
「あ、そう」
それが当然当たり前、という晴明の答えに保憲も苦笑い。
「保憲さま」
ギロリ、睨まれて思わずコホンと咳をひとつつくと
「すまない、でもあの俊宏どのの様子だとこの二、三日、博雅さまは自身の屋敷にも戻られておらぬようだな。…それと為義どのが何か関係しているのか?」
さすが、晴明の兄弟子、話が早い。

「私だとて、ただ待っていたわけではございませぬ。昨夜、博雅さまを探そうとしたのです」
美しい眉間に小さく皺を寄せると、晴明は昨日見た杯の中の話をした。

「血の色の酒の中に為義どのの姿が見えたというのか?」

「為義どのの話など、私は今まで博雅さまから聞いたためしがございません。なのに、何故この人物が現われたのか。きっと、博雅さまが姿を見せないことと関係があるはずなのです」
その晴明の言葉に、いや、待てよ、と保憲が何かを思い出したらしく晴明の話を遮った。
「為義どのは確か近衛府にお役をいただいているはずだ。だからまったく博雅さまと縁がないわけではないぞ。」
「近衛府?あんな貧相な顔が、ですか?」
杯の酒に浮かんだ為義の怯えたくすんだ顔を思い出した。
「ひどいことを言うな。まあ、当たらずとも遠からずだがな。近衛府とは名ばかり、ドコから見たって武士には見えっこない男だからな」
やれやれと首を振って保憲は言った。
「それに、確か博雅さまとは近頃直居のお役目も一緒だったと聞いているなあ」
「直居もですか?」
「ああ、あのヒマな貴族どもが一晩中噂話に花をさかせるやつだ。まあ、あれも大切なお役目のひとつだけどなあ」
「…どうも、そのあたりに何かありそうですね。でも…」
そこで晴明は言葉を切った。
「そのあたりから調べたほうが妥当だが…そんなに回りくどいことをしている暇はない、って顔だな」
「まあ、そうですね」
保憲の呆れたような言葉に晴明はフッと笑った。

よければ付き合うぞ、という保憲に言葉に、何かあればお願いします、そう答えた晴明は為義の屋敷にと向かった。



「殿、お客人にございますが…」
「…帰ってもらえ」
「ですが…」
「帰せと言っておる!私は誰にも会わぬっ!」

明るい日中だというのに、ぴったりと塞がれた蔀戸の中から怒声が飛んだ。
「と、殿…」
「大丈夫でござります。ここは私にお任せを」
困り果てる家人に晴明はにっこりと微笑んで小さく言葉を返した。
「や、やはり、殿は…」
さらに小さくひそひそ声で家人が尋ねる。
「このご様子では間違いございませぬな」
「おお、なんとしたことに…、是非悪霊をお祓いくださいませ、晴明さま」
「ご安心を。」
為義に悪霊が憑いていると適当なことを言って為義の屋敷に乗り込んだ晴明、まあ、当たらずとも遠からずだな、と心の中で呟いた。
心配する殊勝な家人を下がらせた晴明、閉ざされた戸に向って一つ小さく息をつくと
「失礼いたしますよ」
そう一言言うと戸を開けた。
明るい日の光が暗く閉ざされた室内にサアッと差し込む。

「開けるな!私は誰にも会わぬと言ったではないかっ!!」
日の光を遮るように袖で顔を覆って、為義と思しき中の男が声を荒げた。

「申し訳ございませぬが、そういうわけにも参りませぬ。…私のほうがあなたに用がございますのでね」

「…だ、誰じゃ?」

「陰陽師にございます」
「お、陰陽師だと!」
袖の陰から怯えた目が覗いた。


「陰陽師風情が私に何用じゃ!」
青黒い顔色の頬をビクビクと引きつらせながら為義は怒鳴った。
「そう大きな声を出さずとも、目の前にいるのですから聞こえますよ、為義さま。」
晴明は唇の端だけを小さく上げて、笑みともつかぬ笑みを見せて答えた。

「ほう…?」

為義の前に静かに座って深々と一礼した晴明、顔を上げるや、為義の後ろの暗闇に目をやって、その柳眉の片方を上げた。
「為義さま、あなたさまは人を殺めましたね?」
美しい切れ長の瞳を眇めて、晴明は言った。
「な、なにを言って…」
「しかも一体、何人殺めたのです?あなたの後ろは切り刻まれた連中でいっぱいでございますよ」
「えっ!」
晴明の言葉に、為義は言いかけた言葉も忘れて飛び上がった。
「わ、私の、う、後ろに、そ、そんなのが、い、いい、いるというのかっ!」
衣を被ったまま、為義はずるずると晴明の方へと這いずって出た。その目に恐怖が浮かぶ。
「ええ、それは沢山。それにしても、どれもこれもなんとも凄まじい殺されかたですな。ふむ…この斬られ方は見た覚えはないが聞いたことならありますね」
為義の背後から当の本人へと晴明は視線を移した。

「近頃、都を騒がす辻斬りのしわざと、とてもよく似ているように思われまするな。」

「な、つ、辻斬りだと…」
為義の目が見開かれた。

「そう、人を竹のように切り裂く人殺し。その辻斬りの犠牲者たちが、なにゆえあなた様の後ろに憑いているのです?」
「わ…私は…」
すべてを見通すような陰陽師の言葉に、為義は丘に上がった魚のようにばくばくと口を開きはするが、まともな言葉が出てこない。

「博雅さまをご存知か?」

目を宙に泳がせうろたえる為義に、晴明は何の前置きもなくずばりと聞いた。

「ひ、博雅どのだと…!?」

後ろの悪霊から逃げるように晴明の近くに這いずって出ていた為義の体が、ビクッ!と飛び上がる。そして、目の前に端座する陰陽師の顔を見上げるや、今度は逆に後ろの方へと這いずり戻った。

「博雅どのなど、し、し知らぬっ!」
ぶんぶんと激しく首を振る為義。

「ほう、知らぬと仰られるか…」

鬼よりも、悪霊よりも怖い陰陽師が、その紅い唇の端を上げて微笑んだ。



「どうやらあなたは知らぬとおっしゃるのだから、他の方々にお聞きいたしまするか」
「ほ、他の?だ、誰のことだ」
被った衣を首のあたりでぎゅっと引き結んで、為義は不安げに周りをきょろきょろと見回す。もちろん部屋にはこの怖い陰陽師と自分しかいない。…目に見える分には。
「いっぱいいると、さっき言ったではありませぬか」
「さ、さっき?」
まさか、と思う間もなく晴明の片手が上がった。その手に握られる一枚の呪符。
そして小さく呪が唱えられると、晴明の手から、ひらり、風もないのに呪符が舞った。

「ほら、一人、二人、三人…」

「ひっ!」
為義の周りに、斬りあとも生々しい亡者の姿が浮き上がる。同時に為義の悲鳴が上がった。

「わかった!言う言う!言うからこいつらを消してくれっ!!」

衣を体に被ってガタガタと瘧ののように激しく震えながら、為義は甲高い声で喚いた。


「ひ、博雅どのとは顔見知りなだけで…」
付き合いもないから本当によく知らないのだ、と為義は言った。
「ほう?」
片方の眉を優雅に上げると、晴明はすっと手を伸ばし、為義の襟元をギリッと締め上げた。
「グウッ…!」
体ごと持ち上げられて為義が苦しげに息を詰まらせる。
「単なる顔見知りですか…。ところで、あなたは辻斬りを見物にゆかれると仰ったそうですね」
「えっ?」
急に変わった話の矛先と、その秀麗な顔に似合わぬ乱暴な態度に為義は戸惑う。
「い、いったい、何を」
その目が泳ぐ。
「いましたか、その辻斬りとやらは?」
「な、何のことだか、そ、それに、そんなこと、そなたには何の関係もないじゃ!それよりこの手を離せ!無礼であろう!」
が、為義の罵声にも晴明はまったく動じない、むしろその手にはさらに力がこもる。
「…げほっ…は、離せ…」
息に詰まって咳き込みながら、為義は晴明の腕に手をかけて引き剥がそうとするが、非力なこの男には鋼のような晴明の拘束から逃れるだけの力はない。
苦しがる為義に
「いるわけないでしょうね。…あなたは辻斬りを見物に行ったわけではなかった…そう、辻斬りの真似事をしに行った…。ふむ、要するに人が斬りたかったでけですね」
「な、なぜ…」
為義の目が驚きに見開かれる。
「あなたの後ろにいる方が教えてくれるのですよ」
「…!」
バッ、と背後を振り向く為義、だが、さきほど消えた亡者の姿は勿論見えない。
…でも、いるのだ。
為義の背をザアアッ…と恐怖が走る。
「まだ、随分と若いのに、可哀想なことをなされましたな」
「ま、まさか、あ、あの…」
「あなたがそのとき、殺す楽しみのために連れて行ったお供のかたのようですね」
「ひ…っ、、ひっ…」
右に左に背後に狂ったように目を泳がす為義。

「そして、そのときに手に入れた…いや、それとも向こうがあなたを手に入れた、と言うべきか…。」
ぐるぐると泳いでいた為義の視線が瞬時に晴明の顔に戻る。

「妖しと関わりましたな」

晴明は言った。
「あ、妖しなんて…」
為義は顔を引きつらせる。

あの刀の妖しと関わったことを知られた!
だ、だが、それがどうだと言うのだ。自分は貴族だ、妖しと関わろうが子供のひとりやふたり殺そうが咎に問われる言われはない。
必死で気を奮い立たせて為義は震える背筋を伸ばした。

「わ、私が何と関わろうと、そ、そなたに、何の関係が、あ、あるのだ!」

「確かに。あなたがいったい、どこで何と関わろうが私にはまったく関知しないところです。…が、それに私の大切なお方を巻き込むとなると話は別です。」

晴明の唇から笑みが消えた。



魔剣 (4)へ。


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