花橘 (5)

「吉野の山には犬神殿がおられます。あのお方の力をお借りします」
「犬神。吉野の山の狼(大神)か。」
「あの方には少し貸しもありますのでね、なんとかなるでしょう」
そうやって晴明は犬神の姿を借り、博雅たちの一行にうまく加わったのだった。



「せ、晴明どの?」
ようやく自分の置かれた状況に気づいてあわてる博雅。少し起こされた上半身をその中に抱え込むようにして晴明の腕が背後から自分に回されていた。
晴明の意外に広い胸から鼓動が背中から伝わってきて、博雅は自分でもびっくりするほどにドキドキとした。
自分の顔のすぐ上あたりにある晴明のほうを見ることがなぜかできない、今見上げて晴明と目が合いでもしたら心臓が飛び出してしまうのではないかと思った。

「あなたが冥府につれて行かれぬようにずっと身固めの術を行っておりました」
冷静な声で説明しながら晴明はその腕の中から博雅を離した。
帳台からおりると衣服を整え、博雅の傍らにすっと背筋を伸ばして座した。
「融殿に斬りつけられて大怪我を負ったあなたは、危うくその命を落とすところだったのですよ。犬神殿からいただいた秘薬とこの身固めの呪術がなければ、今頃はその魂を泰山父君に冥府に連れて行かれてしまっているところです。」
そこで晴明は、ほう…と大きなため息をついた。
「あまり私を心配させないでください」
普段冷徹な晴明が本当に心配そうな表情を浮かべた。
「う…、すまない…」
体にかけられた衣を鼻の辺りまで被って博雅は消え入るような声で言った。
「博雅さまの剣の腕前が確かなのはよく存じておりますが、敵は少数とは限らないのですよ」
晴明に怖い目でにらまれた。
「わ、わかっておるよ。それぐらい。ただ、こんなところまで私の命を狙いにくるものがおるなど思いもしなかったのだ…」
自分を狙っていたのが融であったとは、本当に思いもしない相手だった。
しかもその理由というのが。
「まさか、この私への嫉妬とは…本当に驚いたよ。」
おまけにそれが晴明がらみであったなど博雅は知るはずもなかった。

「私みたいなのに想いを寄せてくれているお方がおられるなんて…。ましてや、あの融どののように典雅で見目麗しい方より私の方がいいなどという奇特なひとがいるとは。」
そう言って博雅は言葉を切った。
「ん?」
なにか違和感を感じたらしく博雅は眉をよせた。
「どうしました?」
晴明が問う。
何気ない風を装ってはいたがその心中は穏やかならざるものがあった。

融どの、余計なことを話してはいないだろうな…。

できれば、融とのことは博雅には知られたくなかった。
「融殿が確か言ったのだ…女などのために私はここまでやらないと…まさか…私に焦がれているというのは…」
「…」
晴明は何も口を挟まなかった。ただ、黙って博雅の顔を見ていた。
「…。」
博雅は言葉に詰まってしまった。女でなければ後に残るのは自分と同性しかないからだった。
「…う…むむ…」
眉を寄せて博雅はうなる。
女性にはあまりもてないし、それは気にもしていなかったが…。
融の相手ができるものといえば同じような身分のものか?博雅の頭の中を知りうる限りの貴族の顔が次々と浮かぶ。しかし、まったく心あたりがない。
「お相手は誰なのか、融どのはおっしゃっられておりましたか…?」
困った顔の博雅に晴明が低い静かな声で聞いた。
どうしても、聞かないわけにはいかなかった。

「…いや…名は言われなかった。ただ、そこらの女など束になってもかなわぬほどに美しいひとだと…」
ちらりと晴明に目をやって博雅は答えた。

まさか…

「あんなにいつもそばにいるのに気づかない私は鈍いのだと…そう言われた…」

博雅の胸がどきどきと鼓動を早めていった。

まさか、まさか…。

脈打つ胸の鼓動に合わせるように博雅の顔に朱が登ってくる。
意を決してついに博雅は尋ねた。

「…おぬし…か…?」

「だとしたら…?」
晴明がまつげの長いまぶたを伏せて聞いた。その顔はなんだか悲しそうにも見えて。

「私を嫌われますか…?」
ゆっくりとまぶたを上げて晴明は博雅を見つめた。

「嫌うなんて…」
頬を紅潮させて博雅が答えた。
晴明が自分のことをそういう風に見ていたのだとたった今はじめて気づいた。
頭の中が混乱してどうにも考えがまとまらない。

ただ…。

同性なのに晴明がそう思っているということが嫌だとかいう気もちがかけらもわいてこなかった。
…むしろ、今まで感じてきた友情というにはあまりにも強い晴明への感情が、収まるべきところに収まったような感じがした。

「嫌われてしまっても仕方のないことだとはわかっております。融どのが私のことを黙ってくれていればよいなと思ってもおりましたが…むしろこの方がよかったかな…」
黙ってしまった博雅に、淡々と晴明は言った。
「あなたが好きでしたよ。博雅さま…」
さびしげな笑顔を浮かべてそう告げた。
このひとを自分のものにしたかったし、するつもりでもあった晴明、朱呑童子につけられたあとを見たときにそう強く思った。
しかし、その大切な命が腕の中から消えようとしていたときに晴明の気持ちに変化があったのだ。
このひとの命が同じこの世にあること、それが何よりも大切なこと。
自分の想いを遂げるよりもそれが最優先であった。
だから博雅が望まない限り、自分からは何も望むまい…そう決めたのだった。

「もう秘薬も効き始めたしあなたももうすぐ起き上がれるようになるでしょう。お屋敷にはご連絡を入れておきますから、それまではここでしばらくお体を休ませられませ。犬神殿には私のほうからよくお頼みしておきます。」
今言ったことなど覚えていないかのようにさらさらと話すと、すっと立ち上げり、そこから去ろうとした。
その背に博雅が声をかける。

「晴明!」

「なんでしょう…?」
振り向かずに晴明が答えた。
「おぬしは…その…ここにいてはくれぬ…のか?」
「私は博雅様に対して抱くべきではない気持ちを抱いています…そんな私がそばにいられるわけがないでしょう?」
「その気持ち…嫌ではないと言ったら?」
博雅のその言葉に晴明の背がぴくっと反応した。
「お戯れを…」
「私にそんな戯れ言が言えると思うか?」
「博雅さま…」
振り返る晴明。その目に青い顔をして立っている博雅の姿が飛び込んだ。
「まだ、やっと体から死の影が消えたところなのに。なにをやってるのです、博雅さま!」
晴明には珍しく驚いて声を上げ、博雅に走りよってふらつくその体に腕を回して支えた。
「おぬしが逃げたら走って捕まえようかと思って」
にっこりと博雅は青い顔に笑みを浮かべた。
「博雅さま…」
「博雅でよいよ…さまなんて呼ばないでくれ」

「…博雅」
「ああ、それでいい。」
ほっとしたように言うと博雅の体から力が抜けてずるっと晴明の腕から滑り落ちた。
「ああ。だから無理をしてはいけないと言ったのに」
博雅の体を抱き上げるとそっと帳台に横たわらせる。
「今無理をしてまた死にかけたらどうするのです。」
博雅に負けないほどに顔色を悪くした晴明、険しい顔で博雅を睨んだ。
「そのときはまたおぬしに助けてもらうさ。」
目を閉じてほうっと息をついで博雅は言った。
晴明がここから出てゆこうとしたのをとめることができて博雅はほっとしていた。
まだ、自分の感情に整理がついているわけではないが、今晴明を去らせたらもう二度と二人がともにあることはないだろうと本能的に察していた。
それだけは絶対だめだ。
「晴明…どこにもゆくな」
晴明の狩衣の袖をぎゅっと掴んで博雅は言った。

「あなたにそういわれてはもうどこにも行けませんね」
袖を掴んだ博雅の手に己が手を重ねて晴明は言った。愛しいひとに触れられる喜び。
「そうしてくれないと困る、さすがの俺も今はあんまり走りたい心境ではないからな」
今、走ったりしたら自ら泰山父君の下へ駆けつけるようなものだと博雅は笑った。
「まったくあなたという御仁は…。」
唇の端を優雅に吊り上げて晴明も笑った。その笑顔に博雅の胸がどきっと弾んだ。友として感じていた感情が実は別のものをも含んでいたことにようやく気づかされた博雅、晴明の笑みにその胸がときめいた。
その一瞬を晴明は見逃しはしなかった。
「博雅…」
その名をそっと呼ぶと重ねた博雅の手を持ち上げその手のひらに唇を寄せた。
手のひらに晴明の薄い冷たい唇が触れる。
博雅は驚いて声もない。
「ああ、すみませぬ、つい。」
唇を離して晴明は言った。
「…い、いや…!いい、全っ然、へ、平気だからっ!」
顔色もなかった頬に朱を上らせて博雅はあわてていった。
「大丈夫…でございますか?全然と?」
「も、もちろんだ!」
「では」
許可はいただいきましたからね、と晴明は博雅の顔を捕まえるとその唇に自分の唇を重ねた。
「わ…っ…ん…!」
目を丸くして固まる博雅。
至近距離で見える晴明の扇のように長いまつげも目に入らずわたわたとあわてふためく。ほんのわずか唇を離して晴明が吐息のようにささやく。
「落ちつけ、博雅…」
少し色の薄い吸い込まれるようなきれいな瞳、その瞳に見入られ甘く囁かれて博雅の体から余計な力が抜けていった。

「…ん…」
一度は犬神に化けた晴明と同じようなくちづけをしたことがあったが、本当に相手がまちがいなく晴明であるとこうもちがうものかと、うっとりとした心持の中で博雅は思った。
自分の口の中で思うさまにうごめく晴明の舌に己が舌を絡められて頭の芯がジンジンと痺れるようだ。こんな経験は初めてだった。

ちゅ。

最後に軽くくちづけを落として晴明の唇が離れていった。まだ開いたままの口づけで少し腫れた博雅の唇を親指できゅっとぬぐうと
「もう少し眠られませ」
愛しげな笑みをのせた顔でそう言った。
「…どこにも行かぬか…?」
衣を鼻の上まで被って博雅は聞いた。口付けから我に返ってその顔は真っ赤に染まっていた。
「思いが通じた今、あなたから私を引き離すほうが大変だと思いますよ」
「…そ、そうか…な、なら、いいっ…」
ますます衣の中にもぐりこむ。
「…あ〜、その…我らは…え…っと…」
目だけを出してしどろもどろに話す。
面白そうな顔で黙って晴明は続きを待った。
「その…こっ、恋人…っということ…でいいの…かな…?」
もう目すら出てはいなくて赤くなった額だけが衣から出ている、衣の中からくぐもった声で博雅は聞いた。
その様子にクスクスと耐え切れずに晴明は笑うと博雅の隠れた衣をぐいっと引き剥がした。
「わっ!!」
衣を握り締めて博雅があわてる。その顔を捕まえて至近距離からその目を見つめる。
「ええ。間違いなく。」
「そ…そうか…」
「今はこんなだから何もいたしませぬが怪我が治った暁には、あなたと私が間違いなく恋人だということをしっかりと理解させてあげますよ」
にやあっと笑ってそういった。
「…う…うむ…」
その笑顔に少々不吉なものを感じたが博雅はとりあえずうなずいた。
「では、本当に少しお眠りなされませ。」
「どこかへ行くのか?」
今度はおいていかれるというわけではないとわかっているので普通に聞いた。
「犬神殿のところへ。」
「もしかして融どのか?」
ピンときて聞く。
「…ええ、まあ。」
「今はどうされているのだ?俺も命がけだったから結構きつくやっつけてしまった、大丈夫だっただろうか?」
心配そうに言う博雅に晴明は眉をひそめた。
「融どのの体を心配しているのですか?」
「ああ、なにしろ華奢そうだからなあ。骨でも折れてなきゃいいが」
ようやく命を取り留めたというのに博雅の口からは融を責める言葉の一つも出てこない。
「あなたは融どのが憎くはないのですか?」
「なぜ?」
「なぜって…あなたの命を狙ったのですよ。しかも、何度も。」
「う…ん。確かにやりすぎだとは思うがな。でも、俺だとて好きなひとが他の人に心奪われたと知ったら、どう反応するか知れたものではないからなあ。あまり融殿ばかり責められはしないよ。きっとそれだけ切羽つまられておったのだろう」
と博雅は融に同情するように言った。
「まったく、本当に人がいいとういうか…あきれた御仁だ。」
「うん、よくそういわれる。」
にっこりと博雅は微笑んだ。
この笑顔に弱いのだと、晴明は思った。





ようやく想いの通じた平安のお二方でございます。 もう少し続きます。


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