嫉妬って… (1)
博雅に親友にして恋人でもある晴明。
博雅と再会して昔の記憶を取り戻してからあまり間がないせいだろうか、博雅には時々、晴明が二人いるような気がすることがある。
晴明ともう一人…アキラ。
晴明に聞けば、アキラも間違いなく自分であり何の矛盾も不都合もないというのだが、本人はそうかもしれないが、博雅から見て、どうにも違うように見えることが時々、あるのだ。
まさに今がそうであるように。
今、博雅がいるのは晴明の持つ新しいホテルのオープニングレセプションの会場である。普段は晴明の仕事の話には、一切かかわらないことにしている博雅であったが、今回は晴明がどうしても一緒に、と言い張るのでつい、ここまでついて来てしまっていた。
広いホールの遠くのほうに晴明、いやアキラの姿が見えていた。一緒に来たとはいえ、まさか横にくっついているわけにもいかないだろうと、晴明の隙を見て姿を隠していた博雅。もう大丈夫だろうとこっそり先ほどホールに戻ってきたのだった。
(女のこじゃあるまいし、あいつの横にくっついているわけにもいかないしな。)
通りすがりの給仕のトレイから、あわ立つグラスを取るとそれに唇をつけながら遠くに見える晴明を眺める。こうやって離れてみているとアキラとして、経営者としての晴明は普段とずいぶん違うものだなと思ってしまう。
博雅といるときのような雰囲気が一切ない。冷たいまでのその表情。晴明も冷たいほうだと思うがアキラはさらにその上をゆくほどに氷のように冷たい雰囲気をかもし出していた。
普段姿を見せない業界のカリスマになんとかお近づきになろうと、アキラの周りを何人もの人物がうろうろとしているのがわかる。が、あの雰囲気では声すらかけられないだろうなあ、と博雅は思う。
人を寄せ付けないという言葉を聞いたことはあるが、まさにそれだな。
人の念の渦巻く中に一人超然と立つ孤高の存在。
同じ人種と思えないよ、まったく。
と、思っていたら、そのアキラに近づく人影。
おや。
思わず、興味を引かれる。
あまり晴明が自分以外の人間と親しげに話すのなど見たことがなかったので、そのにこやかな表情に驚いた。
こちらからはその広い背中しか見えなかったが、晴明と同じほどの背丈のその男は30代くらいだろうか。遠めにも分かる仕立ての良いスーツに均整の取れた体格。少しごつい手が華奢なグラスを握っているのが妙に男臭さを感じさせる。
その肩口の向うに自然に笑う晴明の顔。
男も肩を少し揺らせて笑う。
誰だ?
胸の奥にチリッ…と小さな痛みが走る。
痛てっ…。
覚えのない痛みに博雅は少し戸惑う。胸の辺りをさすってみるがどこも具合は悪くない。
なんだったんだ、今の。
頭を傾げているところに誰かが近づく気配を感じて顔を上げた。
「いないと思ったらここにいたのか」
「…あ。」
ぱっと顔を上げるとそこには恋人の顔。
さらりと流れるような薄茶色の髪に同じく色素の薄い切れ長の瞳、すっと伸びた鼻筋に片側だけ口角の上がった華のような紅い唇。これだけ書くと女性のようであるが、その華のような美しい美貌の下に氷のような冷たさと鋼の強さを併せ持っているためか決して女性のようには見えない。まして180センチをゆうに超える背の高さと、しなやかな豹のような身のこなしは周りを取り巻く有象無象の中にあってはさらにその存在を際立たせる。
周りを取り巻く人間を人とも思わぬその男が、今は心配そうに博雅の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫か?」
「あ?ああ。うん。大丈夫、大丈夫。ちょっとぼうっとしてた」
心配げな晴明ににっこりと笑みを返す博雅。
「へえ、あなたでもそんな顔をすることがあるんですね」
後ろから聞こえたもう一人の声に、博雅は晴明から視線をはずして声の主のほうを振り向いた。
なんだかどこかで見たことのあるような顔をした男がそこに立っていた。
漆黒の黒髪がゆるいウェーブを描いてその男の顔を縁取っていた。きりっとした上がり気味の眉に黒目がちの澄んだ瞳、よく焼けた肌に少し大きめの肉感的な唇。珍しいものを見たと言って笑うとイヤミなぐらい真っ白な歯がきらりと光った。とにかく全体的に見てもどこにも隙がない、というか、言うなれば、パーフェクトな印象。
「珍しいとは失礼ですね。小野さん」
晴明がその男に向かって言う。
「いや、悪かった、でも、あなたがあんな顔をするなんて見たことがなかったものでね。」
博雅の顔を検分でもするようにじっと見て小野と呼ばれた男が言った。
「よほど大切な方と見受けるが?」
博雅に自己紹介を促す。
「あ、私は…」
名乗ろうとする博雅を晴明が制する。
「私の連れです。仕事関係ではないのでわざわざ名乗る必要はないでしょう?」
やんわりと博雅が名乗ろうとするのを止めた。
「おや、本当に大事なんだ」
へえ、と小野という男が興味深げに言った。
なんとなく小ばかにされたような気がする。
なんだろ、この男…
普段は人のことを悪く思ったことのない博雅が、初対面のこの男には、珍しくむっとした。おまけに晴明のすぐ隣に立つと、色白で月のひかりのように透明な感じの晴明と対照的に、日の光のようにくっきりとした印象のこの男が対のようにぴったりと合って、ものすごく絵になる。どちらもタイプこそ違え、人を惹きつけてやまないカリスマ性を持っている。おまけにこの男は自分のそんな魅力を十分に承知しているようで、晴明に向かって話しかけるのも他の誰にもできないほどにくだけて親しげだ。
「アキラにしては珍しい」
晴明の肩になれなれしく腕をかけて、そう言うと、にやにやと笑って博雅を見下ろした。
そうなのだ、おまけに博雅より背が高い。
とても目を惹く…カップル…?
ついそんな風に思ってしまって博雅はあわてる。
な、何を考えてるんだ、俺?ば、ばかだな、男同士のカップルなんてそんな簡単にあっちこっちにいてたまるか。まして、晴明だぞ。…いや、ここにいるのはアキラか…。
くっつくなよ、と小野の体を押し返す晴明にチラッと視線を向けると横を向いた晴明とは目が合わなかったが、元々こっちに向いていた小野とは目が合った。
その目が意味ありげに晴明に一瞬向き、それから博雅の目をきっちり捉えて、ニッと笑った。
なんだ、今のはどういう意味だ。
博雅の存在を軽く無視して二人にしか分からぬ仕事の話を始める小野に、博雅は段々イラついてきた。
「せ…いや、アキラ、俺、先に戻ってるよ。」
晴明が仕方なく仕事の話に付き合っているのは傍から見ていても分かったが、なんだかここにいるのが無性に場違いな感じがした。
博雅はあわててそういうと、じゃあ、失礼します、とその小野と紹介された男に向って軽く会釈すると、その場から身を翻した。
「おい、博…」
晴明が声をかけようとして、ためらって自分の名を呼ばなかったのも、なんだか更に面白くない。
そんなに俺の名を知られたくないかよ。
たったそれだけのことだったのに、博雅の目の端にじわっと涙が浮かんだ。
ホールを足早に飛び出して人気の無い廊下の角を曲がったところでドン!と人にぶつかった。
涙ぐんでいたので下を向いて歩いていて、前をよく見ていなかったのだ。
「おっと!」
「す、すいませんっ!」
わ、まずい、濡らしちまった。
相手の仕立てのよさそうなジャケットに涙の染みが付いてしまった。
ああ、俺ってどこまでも情けないヤツ。…男じゃねえよ。
さらにどんと落ち込むと顔も上げずにもう一度謝った。
「よく、前をみてませんでした。本当にごめんなさい。」
そういって相手の脇をすり抜けようとした。その腕を引き止められた。
「大丈夫ですか?博雅さん」
「え?」
名前を呼ばれて思わず顔を上げた。
『泣いてるみたいだし」
そういって優しく微笑む顔はどこかで見たような。
「え?誰…?」
あわてて目をぐいっとこすって博雅は頭を傾げた。
博雅よりゆうに10センチは高い身長、少し見上げる形になってその顔を見れば、すこしばかり下がり気味の優しげな目と出会った。年の頃は晴明と同じぐらいか、もう少し上といったところ。大きめの唇をほころばせて微笑むその品の良い端整な顔にはなんだか見覚えがあるような。
「ああ、失礼しました。あなたのことを色々伺って知っているのものですから、つい、軽々しくお名前を呼んでしまいました。すみません。」
戸惑う博雅に、急に名前を呼ぶなんて怪しすぎますよね、そう言って博雅の両腕に手を添えたまま、その人はまた優しく微笑んだ。人の心をほっとさせるような温かな笑みに博雅の緊張が解ける。
「それよりどうしたのですか?なんだか泣いてらしたようですが…?」
博雅の顔を覗き込んで心配げに眉をよせた。
「あっ!いえ、なんでも…」
大の男が泣いてるところを見られたなんて。思わず顔を逸らす。
「なんでもなくはないでしょう?あなたのような人を泣かすなんて…。どこの誰だか知らないがロクなやつじゃないですね」
「…いい大人が泣くなんて…情けないですよ…」
名も知らない人の言葉に博雅の頬が恥ずかしさでぱっと染まる。
「大人だって、男だって心が痛ければ涙が溢れます。何も不思議なことじゃない。まして、あなたのように感性の豊かなひとならなおのことです。」
眉間に軽く皺を寄せてその男は言った。
「私はそんなんじゃ…。ただの泣き虫で…」
慰めるように言われて、博雅は困って顔を上げ、その人を見上げた。涙で濡れた瞳と少しばかり上気した頬。大の男という割には随分とそそる可愛い顔だが、本人に勿論自覚などない。
「…相変わらず可愛いおひとだ」
目を細めて博雅を見下ろし、その男は小さく呟いた。
「え?」
今の言葉がよく聞こえなくって博雅は聞き返す。
「なんて?」
「なんでもないですよ。それより博雅さんはこれからどちらかへ?」
聞き返す博雅の言葉に返事はせずにその男は尋ねる。
「え…。部屋に戻ろうかと。」
「部屋には誰かお待ちで?」
「いえ。」
「では、一人?」
「は…まあ。」
「なら、私と少し飲みませんか?」
名も名乗らぬその男はにっこりと笑って博雅を誘った。
「え、でも…」
今来た廊下を振りかえる博雅。
「あっちに何か?」
男も博雅の視線を追う。
「い、いえ…」
「あっちに用はない…と。」
ふむ、とそのひとはひとつ息をつき、そして博雅の背をやんわりと押した。
「なら、何も問題はないですね。さあ。ゆきましょう」
二人が消えたその少し後。
二人のいた廊下で博雅たちとはまた別の二人の声。
「待てよ。アキラ」
前を足早にゆくその背に声がかかる。が、声をかけられた方は振り向きもしない。
「待てって!」
一足足を速めると前をゆく晴明に追いつきその腕を取った。
「何だ」
険しい顔をして前をゆく晴明が振り返る。
「何だって…冷たいなあ。何をそんなにあせってるんだ」
「俺は連れを探しにゆくだけだ。用がないならあっちに戻れ」
ホールのほうを顎をしゃくって指す。
「つれないなあ。あんたと俺の仲のくせにさ」
博雅のまえで話ていたときとは違って随分と親しげな口をききながら、小野は晴明の指に自分の指を絡ませる。
「仲って…もう済んだ話だ」
その手をちらりと見下ろすと、晴明は絡まる指をぱっと解いた。
「あんたにはそうかもしれないが、俺には済んだ話じゃない。」
にこやかだった小野の表情が険しくなった。
「終わっただろうが」
と晴明。博雅を見つけたあの時、それまで付き合いのあった全ての男や女は綺麗に清算した。
実は小野はその中の一番付き合いの長い恋人だった。勿論晴明がアキラとしての自覚しかなかったころのことではあったが。
今見ればこの小野と一番長く付き合いがあったのもわからないでもない。
なんとなく全体的に博雅とその面立ちが似ているのだ。
無意識のうちに自分は博雅を探していたのだと今は分かる。でも、面立ちこそしているが博雅とこの小野とではまったく性格が違ってはいたが。
博雅の純でまっすぐな性質とはまったく逆、綺麗な顔のくせに皮肉やで自信過剰なこの男のどこが博雅に似ているなどと思ったのか今の晴明には信じられないほどだ。
「終わってなんかない!あんたのほうが一方的に切っただけだ!」
小野が晴明のスーツの襟を掴んで詰め寄る。
「何の説明もなく一方的に切りやがって。人をなんだと思ってるんだ!文句を言おうにもあんたはとっくにこの東京から消えてるし。秘書を締め上げてもあんたがどこにいるのか知らないって言う。こんなので終わったって納得なんかできるか!」
「おまえが納得しようがしまいがもう済んだ話だ。大体俺とおまえはそんな感情がらみの関係なんかじゃなかったはずだ。」
襟を握り締める小野の手を強い力で掴むとゆっくりとその手を外させた。
「…さっきのあいつの身代わりか、俺は?」
目に殺意とも取れる色を浮かべて小野は言った。
「ハ。なにを」
一笑に付す晴明に
「俺だって、さっきのヤツと自分がよく似ているっていうのぐらいはわかる。俺はあいつの代わりだったっていうわけだろ?」
小野は低い声で言った。その目が暗い。博雅がまるで日の光のようなと思ったのはあの時だけだったのだろうか。それとも人は嫉妬に身を焦がされるとこのように暗い光を放つのだろうか。
「ばかばかしい。あいつとはお前の後で知り合ったんだ、その設定は物理的にありえないな。それにおまえは誤解しているようだがあいつとはそんな仲でもない。ま、お前の知ったことじゃないがな」
冷たく突き放す晴明。
「人前で痴話喧嘩などごめんだから話をあわせていたが、仕事の話でもないのだったらもう帰ったほうがいいのではないか。」
出口ならあっちだ、そう言って晴明は小野に背を向けた。
「くそっ!俺はあんたをあきらめないからなっ!!」
廊下の壁をガン!と拳で殴りつけて小野が晴明に向かった怒鳴る。
「無粋だな」
片手を上げて答える。
そうして晴明は博雅がひとりでいるはずの最上階を目指した。
こちらは、一人さびしく部屋にいるはずの博雅。
「さ、どっちにします?」
「う〜ん、どっちかなあ」
そういって頭を傾げた博雅、さっきまで涙ぐんでいたのが不思議なくらいに上機嫌である。
「こっちかなあ。やっぱり」
そういって隣に座る男の差し出した二本の酒の内、片方に手を伸ばした。
「やっぱりねえ」
そのラベルを見てくすくすと相手が笑った。
「なんで笑うんです?」
そのビンの栓を抜こうと奮闘しながら博雅は不審げに尋ねた。
「あなたならそっちだろうと思ってたのでね。大当たりだ」
見れば博雅の手には大吟醸の古古酒。笑った男の手には琥珀色の蒸留酒。ただの蒸留酒などではない。滅多なことでは手に入れるのも難しいアイリッシュウイスキーの名酒。
おまけに見た目もオシャレで、普通の若いひとならこっちを選びそうなものだが。
「私はこっちのイメージですか?」
オシャレじゃないなあ、と博雅は屈託なく笑った。
「でも、この二つが並んでればやっぱり私はこっちを選びますよ。なんたって菊酒の大吟醸だし。…この香り。う〜ん、素晴らしい」
透き通るグラスに注いだほんのりと生成り色のその液体に鼻を近づけ博雅は満足げにうなった。
「可愛いなあ」
にこにこと博雅の顔を眺めながら相手の男は言った。
「は?」
グラスを手にした博雅が固まった。
「あ。聞こえちゃったかな」
博雅の代わりにぐいとグラスを傾けてその人はまたにこにこと微笑んだ。
「う〜ん、確かにこいつは美味い。」
「…え〜っと」
唐突に可愛いなどと言われてどうリアクションをすればいいのかわからない博雅。よくよく考えれば隣で酒を干すこの男の名前も知らないことにようやく思い至った。
「何を固まっちゃってるんです、博雅さん。飲まないんですか?」
空になったグラスをカウンターにコトリと置いて彼が言う。
「あ、あの…今のはどういう…っていうか、よく考えたら私はあなたのお名前も知らないんだった…」
あまりに自然に親しげなものだから名前など聞く気も起きなかった。
「おや、ようやくその質問に行き当たりましたか。いったいいつになったら私のことを聞くんだろうと思ってましたよ」
くすくす笑いが止まらないらしいその男が更に言う。
「知らない人についてっちゃいけないってあの男にいわれませんでしたか?博雅さん」
「あの男…?」
「今は稀名とか名乗ってるあいつですよ」
ニッと口の端を引き上げてその男は言った。
稀名とか…って…。
「…あ、あなたはいったい…」
「本当に私のことを知りませんか?…博雅どの?」
「ど、どのって…」
秘密めいた笑みを浮かべる男を前に博雅は混乱する。
どのって、どのって…ちょ、ちょっちょ、ちょっと待て待て待て!
普通今の時代の人間は人のこと呼ぶ時「殿」なんてつけないぞ。
ってことはこの人、妖しか???
にこにこと微笑むその男に向って恐る恐る尋ねてみる。
「あ、あのあの、あなた、もしかして…ひとじゃない…とか?」
プハッ!と噴出す相手。
「はっはっはっ!それいいなあ。」
ウケますよ。と大笑いされてしまった。
むうと膨れた博雅の肩に手を置くと笑いすぎて涙のたまった目でその男は言った。
「残念ながら私は人間ですよ…っていうか、まだ、そんなのと関わってるんですか?」
「いったい誰です、あんた?」
顔を横に振り向けると数センチと離れていないところに相手の顔があった。が、この際そんなことにはこだわってなどいられない。
瞳の中の虹彩までが見える距離でその男が言った。
「昔一緒に弓を引いたじゃないですか。お忘れか?」
「え?」
驚く博雅の唇にさっと触れてその男はパッと離れた。
「あの時、口付けたときもあなたはそんな顔をしましたよね」
「た、たたた篁(たかむら)殿っっ???」
「ハイ、正解」
まん丸な目を見開く博雅の頬をぴたぴたと叩いてその男、小野篁はにっ〜こりと今日一番の笑みを浮かべた。
小野篁(おののたかむら)
博雅に柔和な笑顔を向けるこの男は遠い過去、晴明や博雅とともにあの平安の闇を生きた人物である。しかもかなり変わった経歴の持ち主でその変わり方は晴明と双璧をなすといっても過言ではなかった。
当時、背の高い博雅や晴明にもかなわぬほどに背が高い男であった。そのくせ、体の大きいものには似合わないほどにその動きは敏捷で弓や刀、馬術と武芸一般に秀で、しかも文章博士の肩書きをもつ文官としてもエリートであった。
歌を読めば白楽天の再来と言われ、何をやらせても人後に落ちるなどということのない人物である。それなのに晴明と同じように人から恐れられてもいた。
冥府の次官だと言われていたからである。
閻魔大王に仕え、人のあの世での行き先を決めるお役目を担っていると噂されていた。
あの世とこの世の境目の曖昧だったあの時代においてその噂は人を畏怖させるに十分すぎるほどであった。
が。
「なんであなたがここにいるんです???」
博雅が言うのももっともである。転生したというならそれも分からないことではない。そんな人間なんてそこらにはいっぱいいるだろう。だが、過去の記憶をきっちりと持って、しかも自分と会うなんて砂漠で針を探すようなものだ。
「いや、あなたの噂を聞いたもので。もしかしたら会えるかもって」
「わたしの噂?」
「なんでも私の従兄弟の恋敵だそうで」
「えええ??」
「従兄弟から恋人をあるやつに盗られたって散々聞かされてましてね。私には関係のない話と適当に聞き流してたんですけど。どうも聞けば聞くほどその恋敵というのが知ってる誰かさんに似てましてねえ。」
酒の満たされたグラスを博雅に勧めながら言うことには。
「むか〜し知ってたあるひとと同一人物にしか思えない。それで、どんな人物なんだろうと詳しく聞けば、その男の名前は博雅って言うらしい、なんて言うじゃないですか。」
いやあ、ほんとにびっくりしましたよ、と篁は笑った。
「まさか本当にあなただったとはねえ」
そういってくすりと笑うとグラスを持ち上げた。
「ちょ、ちょ〜っといいですか?」
まるで街頭インタビューのように博雅が話の腰を折った。
「はい?」
にこやかに返す篁。
「私のことはともかくとして、なんであなたがこの時代にいるんです?」
「おや、忘れちゃったんですか?昔一度説明したでしょうが」
「…あ。」
「思い出しました?」
遠いあの昔。
小野篁と言えば伝説的な人物として知られてはいたが、もう過去の人ともなっていた。博雅や晴明の生まれる前にはもう故人となっていたからである。
「六道の辻に例のあの人を見た」
と言った噂が立ったのはまだ晴明と博雅が出会う前のことだった。勿論そのころは博雅も葉二すら持っていない。まだ十代の終わりのうら若き貴族の一人である。
「六道の辻?」
その話を博雅にしてくれた殿上人に博雅は聞き返した。
ようやく直居のお役を頂いた頃のこと。
直居というのは闇に沈む宮中で夜を通して帝を警護するという名目ではあったが実際は危険なこともなくお役を言い付かった貴族は夜を徹して歌や人の噂をして朝を待つと言ったある種のサロンのようなものである。
初々しさの残る若き博雅は年上の貴族の連なる端にちょこんと座してみなの話に耳を傾けていた。
「おや、知らないのですか、博雅どの。」
すぐ傍に座った親切そうな殿上人のひとりが博雅を話に入れてくれた。
「はあ。場所は知ってはいますけど、あの人っていうのは?」
「六道の辻と言えばあの人にきまってますよ。本当にご存知ないのですか?」
「ええ。」
「博雅どのはまだお若いから知らなくても当たり前ですよ。」
ほほ、と杓で口元を押さえて年配の貴族が言った。
「もう随分と昔の話ですからな」
「でも先ほどみなさんはそのお方を見たいうお話をされていたのでは?」
「そう、そこなのですよ」
「誰かを迎えにきたのではないかな」
「まさか。」
「いや、わからなぬぞ。あっちにゆかれた方がいいお方もおるではないか」
「そのようなこと口に乗せないほうが」
「そうそう、誰が聞いておるものやら」
あっという間に噂好きの殿上人たちは博雅をそっちのけで話出した。
いったい、誰だろ。
そうは思ったがこの噂の輪の中に入る勇気というか、その気は起きなかった。人の噂をしているよりは笛や琵琶を弾いているほうがよっぽど性に合っていた。
結局それが誰だか聞きそびれたまま数日が経ったある晩のこと。
月の明かりに誘われて竜笛を吹く博雅。
そぞろ歩きながら思うさまに笛を吹き、一曲終わったところでどこからか声がかかった。
「なんともいえぬ良い笛を吹かれるな」
「え?」
びっくりして声のしたほうを見上げた。というのも声が上の方からかかったからである。
月を背にして松の高い枝に黒い影。
「だ、誰だ?」
思わず腰の太刀に手をかけ誰何する博雅。
その影がむくりと立ち上がった。どうやら人の姿はしているらしいが、この夜更けにあのような高い木の上に人などいるわけがない。
思わずゴクリと唾を飲む。
夜のお出歩きはお控えくださいと言った家人の言葉が頭を掠めた。
嫉妬って…(2)へ
へたれ文へのご案内にもどります。
好き放題書いております。色々設定にムリがあってもこの際無視してくださいませ。(汗汗汗)
うぇbにて続きます。