SYAMON(2)


保憲は鼻を空に向けて何かのにおいを探しているようだった。
その顔の向きがぴたりと止まったと思うと、突然部屋から飛び出して走り出す。
(保憲っ!!)
沙門があわてて後を追う。
保憲は廊下からはだしのまま暗い庭先へと飛び降りる。庭をまっすぐ走り抜けて生垣を越えてしまえば表の通りへと続く道に出てしまう。
そうなっては大変だ。街なかに出られてはもう捕まえようがなくなってしまう。
まして、狐に取りつかれていては、けものもおなじだ。夜でいくらか交通量がすくないとはいえ、事故にでもあいかねない。
庭を駆け抜けようとしていた保憲の足が、急に地面に吸いつけられるように止まった。
人形か何かのようにその動きが、急にぎこちなくなった。ぎしぎしときしむように、体が沙門のいる方へとへと振り向く。

無表情な保憲の唇がぎこちなく開いた。
「沙…門…。おれ…だ…。」
とぎれとぎれだが間違いなく保憲の言葉だ。
(保憲っ!)
沙門が足元に駆け寄る。
「俺の…体を支配し…ようとしてい…るこいつ、元いた場所にもどろうと…している…。たぶん…これは…管だ。」
保憲の言葉に道清が驚いた。
「くだ…管狐か!」
話には聞いたことがある。陰陽師の中でも管狐を使うのは外法とされているはず。
では、今日ここに来たという男は、道に外れた陰陽師ということか。
「…なんとか…俺の体から…追い出す…から、代わりの竹を…管を…用意して…くれ。」
いいながらも保憲の額に大粒の汗が浮かぶ。管狐に支配されて、走り出そうとしている体を必死に抑えているのだ。
機械仕掛けのような動きで、その両手がゆっくりと動き出す。
道清と沙門が見ている目の前で保憲は必死に印を結び、呪を唱える。管狐を抑える緊縛の呪だ。
「オンキリキリカラハリソワカ…ウン!」
道清が驚いたようにそれを見ているが、保憲にはそれどころではない。自分の体を支配しようとする妖物と戦うのに精一杯だ。ちょっとでも気を抜けばあっという間に意識を持っていかれそうだ。
「はやく…管の…用意を…」
搾り出すように言う。
「おう。そうであった。おい!誰か!!」
当主の道清があわてて屋敷の中に声をかける。
その声に誰かが向かってくる足音がしていたが、もう、とても抑え切れそうにない。
体の中で管狐が暴れている。
印を結ぶ手をもぎ離そうとしているのが分かる。そいつは印を結ばれ、おまけに緊縛の呪まで唱えられて怒りまくっている。
管狐というのは狐の形の式神の一種だ。別名をイズナとも言う
高度な式神だが、さらに飯綱六印法といって天狐や地狐を使う高度な呪法もある。この管狐はそこまで高度なものではない。
管狐はその飼い主の下ではおとなしく言うことを聞くものだが、このように飼い主の手から離れてしまえば唯の妖しと同じだ、とても普通の人間の手に負えるものではない。
保憲だからこそ、ここまで抑えていることが出来るのだ。
(くそっ!俺の体から追い出すには管に誘い込むのが一番なのに、これでは俺のほうが持たない…!)
とても、代わりの管が用意されるまで持ちそうにない。天狐や地狐までは行かないがそれでもかなりの力を持っている。
これを作った術者はかなりの能力があったようだ。
もう、ここまでかと意識を手放しそうになったそのとき、大きな吼え声が響いた。まるで地鳴りのようだ。
「Gaurururu…」
保憲の前に、大きな真っ黒な虎が金色の瞳を光らせて牙をむいていた。
沙門だ。
(ちんけな狐め!保憲の体からでてゆけっ!!)
保憲の中に潜む管狐にむかって噛み付くように吼える。
すると、あんなに暴れまくっていた管狐が怒れる沙門の吼え声に恐れをなして、たまらず保憲の体から飛び出してきた。
影のようにも見えるその狐の本体を、沙門がすかさずその大きな前足で叩き落とす。
「ぎゃんっ!!」
地面にたたきつけられて管狐の体がはっきりと実体を持った。
一度は地面にその身を伏せた管狐だったが、窮鼠猫を噛むというのか、身を躍らせると沙門に向かって飛び掛ってきた。
体の中から狐が抜けたことで緊張していた体からがくりと力が抜け、つかの間ひざを突いてぐったりとした保憲に気を取られていた沙門は、その隙をつかれて、肩に思いっきり食らいつかれた。管狐の牙がその肩にぐさりと突き刺さる。
「Gyaw!!」
沙門の悲鳴が上がった。
「沙門!!」
はっとして、保憲が叫ぶ。
その保憲の声に沙門がほっとする。
(保憲、無事か!!よかったあ!)
保憲さえ無事ならもう、怖いものなどない。
沙門は肩に食いつく狐をふりはらうと、その体を地面に押さえつけて、その喉元に咬みついた。沙門の牙にくらべれば狐の牙など乳歯のようなものだ。喉笛を咬み裂かれて、管狐は甲高く引き裂くような叫びを上げて絶命した。
その体はあっという間にさらさらと灰のように崩れていった。後には灰の山が小さく残った。

沙門は保憲の傍へ寄るとその大きな体を擦り付けた。大きな図体に似合わぬかわいい顔で、ごろごろと喉を鳴らす。
(保憲!保憲っ!!)
よほどうれしいのか何度も名前を呼ぶ。
そんな沙門がひたすら愛しくて、その大きな首に腕を回すとその鼻に顔をよせる保憲。
そして、そのふかふかの首に顔をうずめると大きく息をつく。 
「ありがとう…沙門。もう、駄目かと思った…」
その手がさっき管狐にかまれた傷に触れた。保憲の手にべったりと血がついた。
沙門も傷に触れられて、その身をびくっとすくませる。
「沙門!怪我したのか!?」
あわてて沙門の肩の毛並みを掻き分けて傷を探す。深い咬み傷から夥しい血が溢れていた。
保憲は自分のシャツの袖を引っ張って破ると丸めて傷にあてて止血をするために傷口を押さえた。痛さに沙門が唸った。
保憲はそばにいる道清に助けを求めた。
「じいさん。頼む、血を止めて消毒をしたい。なにか薬と包帯を持ってきてくれないか?」
「うむ。分かった、今持ってこさせるからその子を部屋に入れるといい。」
そばに控えていた家人に、薬とその他にいりそうなものを持ってくるよう指示すると、保憲と沙門を家の中へと招き入れた。
人の体の倍ぐらいはあろうかという、大きな黒い虎。
その大きな体をゆらりとよろめかせながら、保憲とともに部屋の中へと入ってくる。
その大きさに道清は心の中で感嘆する。猫又だということはすぐに分かったが、このような変化をするものがいるなど初めて知った。
それにしても、この分家の保憲という子は…?
賀茂の家系とはいえ、誰からも陰陽の術など教えてもらったことなどないだろうに
というより本当に呪を使えるものなど、この賀茂家に名を連ねる陰陽師を名のるものにも、唯の一人としていない。
自分だとて、いくらかそれらしいことは出来るが、とても妖物を相手にあそこまで呪で対峙するなどできるものではない。
いったい、この子はなんなのだ…。
「じいさん、悪いがぼけっとしてないで手伝ってくれないか?」
声をかけられて、道清は沙門の傷を明るいところで調べている保憲のそばへと近寄った。
「どうした?なにを手伝えばいい?」
「うん。…ただの咬み傷かと思ったら、あの狐、傷とともになにか呪のようなものを残していきやがったみたいだ。」
指差す先の傷は普通の傷とは違って、なにやら禍々しいどす黒い紫に染まっている。
「このままでは沙門が危ない。呪の元はたぶん、さっきのあのこ汚い男だろう。今から呪詛返しをやる。悪いけど、俺が言うものを用意してくれないかな。」
あまり目立つことはしたくなかったがこの際しょうがない、このじいさんには、後ですべて忘れるよう呪をかけることにしよう、そう保憲は考えていた。
「なにを用意すればいいのかな?」
驚きを隠して問う。呪詛返しとは…。ますます不思議な…。
「そんなに大した物はいらないんだが、とりあえず、すべて飛び去ってなくなってしまう前に、さっきの狐の成れの果ての灰をほんの少しでいいから拾っといてくれ。あれがあるとないとでは、随分違うからな。それと紙と筆、墨、あと弓矢を一式。頼めるか?」
「わかった、すぐ用意しよう。」
道清は答えるとすぐに部屋を出てすべての手配をしにいった。
 
部屋の障子がぱたりと閉められた。
保憲は沙門に呼びかける。
「沙門、大丈夫か…?俺がどじったばっかりに悪いことしたなあ。すまない。」
沙門の大きな頭を優しく撫でる。
その保憲の目はどこまでも優しく、そして今は心配で翳っていた。
(ほんとに…おまえはどじだ。自らあんなものに取り憑かれにいきやがって。お前が意識なくして、私がどれだけ心配したと思っているんだ…)
沙門が傷の痛みに少し唸りながら答える。
(しかも、ほかの連中の見ている前で呪は使うわ。印は結ぶわ…。
ここのじいさんは、おまえが思っているほど馬鹿でもなければ、力がないわけでもない。…ばれるぞ、保憲。)
「まじかよ!?後で適当に記憶を操作しとこうと思ってたんだが…ムリかな?」
(ほかの連中は大丈夫だろうがたぶん、あのじいさんはむりだろうな。私のことも一発で見破ったぞ。)
「だから、お前もこの姿を見せたのか?」
(ばかだな!お前がもう少しで管狐なんかに負けそうになってたから、しょうがなくに決まってるだろうが!でなければ、わざわざこの姿など見せるものか!)
顔を動かしてしまって、肩の傷に激痛が走った。思わず唸る。
(Grururru…)
「傷の大きさを考えると、元の猫の大きさにはまだ戻らない方がいいな。今、さっきのやつに呪詛返しをやるから、それがすんでから元にもどれよ。ほんとはこの大きさのままがいいんだが…さすがに虎のままではなあ。」
(では、これでどうだ?)
保憲の腕の中でその姿が変わった。大きな虎が一瞬の間に小柄な女性へと…。
保憲の腕がびくっとはねた。
(なんだ、驚かせたか?でも、虎よりはこっちのほうがましだろ?)
その華奢な首から肩にかけて、鮮血で真っ赤に染まっている。
「まだ、さっきの虎のままでいてくれ。…痛々しくてみていられない。」
保憲の声がかすれる。
(そうか、それにさっきのじいさんにこれ以上、秘密を知られるのもごめんだしな。)
そう言ってまた変化しようとした沙門を、つかの間保憲が止めた。
「待てよ。変わる前に…。」
言い終わらないうちに沙門の目の前に保憲の顔が降りてきた。驚く沙門が何もいえない間にその小さな唇を、保憲の少し厚めの唇が覆う。触れるだけの優しい口付け。普段、保憲が付き合っている彼女たちには、したことのない優しい口づけだった。
「ごめん。我慢できなかった…。」
(保憲…)
「ほら、じいさんが戻ってこないうちに変化しろよ。ばれちまうぞ」
目をそらしながら保憲が言った。
(わかった…。でも保憲、今のは…?)
元の虎の姿に戻った沙門がいまの口付けの意味を聞こうとしたとき、再び障子が開いて道清が戻ってきた。
後ろに薬や弓、ほかにいるものを手にした家人を従えていた。家人は少し驚いたように保憲たちを見たが、何も言わなかった。
記憶を消さねばならぬのがもう一人、と保憲は心の中でカウントする。
「これでよいか?」
筆や墨、弓と庭からかき集めた灰。
「ああ。これだけ揃えば大丈夫だ。」
保憲は沙門の首から、そっと手をはずすとその血にぬれた手を服のすそで無造作に拭い、紙と筆を手に取った。
筆にたっぷりと墨を含ませると、とても19歳とは思えぬ筆致でさらさらと何かを書く。
道清がそっとうかがうと、それは文字と不可思議な文様の混じったまさしく呪符であった。
ちらっと保憲も道清の方を見る。視線が合ったが、お互い何もいわない。
保憲は呪符を書き終えると、それに先ほどの狐の灰をつつみ細く折りたたんだ。
そして、それを弓矢にくくりつけると庭先に降り立ち、空に向かって矢をつがえる。
ほかの誰にも聞こえぬ小さな声で呪詛返しの呪をとなえると、大きく弦を引き絞り天に向かって矢を放つ。
放物線を描いて矢が飛ぶ。
落ちてゆくのかと思われたそのとき、矢は急にその勢いを増して、さらに天高く飛び去った。
「これでいい。下手をすれば、さっきの男の命を奪うことになるかもしれないが。まあ、あのふてぶてしい感じではたぶん大丈夫。死にゃあしないだろ。」
庭からトンと部屋に戻ると、今度は手際よく沙門の傷の手当を始めた。
その鮮やかな一連の動きに、道清はすっかり感心してしまった。これはもう聞くしかない。
「保憲君。君はいったい何者だ?もちろん加賀の家の一人息子だということは知っている。…が、意味はわかるだろう?
この年寄りにぜひ、教えてもらえまいか?」
沙門の手当てをする保憲の手が一瞬止まる。だが、顔は上げない。
「なんのことだか、僕にはわかりませんが…。」
無駄かなと思いつつ、一応とぼけてみる。
「あまり年寄りをいじめるものではないよ。ははは。」
そう笑う道清。
なかなか根性もすわっておるな、とますます相好が崩れる。
賀茂家も自分で終わりかと思っていたが、このようなとんでもない逸材が眠っていたとは、うれしくてしょうがなかった。
その鮮やかな呪の手並みと実力、そしてこの大きな妖し、いったいどこからこのような青年が育ったのか、どうしても知りたかった。
 
 
 SYAMON(3)

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